2007年10月26日

行き詰ったときは

今住んでいる家は、築30年近いボロ家だが、いちおう庭付き一戸建て。
買って8年ほどになる。ここに来る前は公団住宅に住んでいた。

マイホームを持つことが別に「夢」という訳でもなかったし、そのためにコツコツ貯金していたというわけでもなのだが、家賃を払い続けているよりも買っちゃったほうが得なのかなと思ったのがきっかけだった。

でも、とにかく「引っ越したい」と決めてからは頑張った。
自分達は現状でどのくらいの住宅ローンが借りられるのか、頭金や諸費用はいくら位必要か、家選びのチェックポイント、様々の手配や手続きのこと等々、とことん調べまくった。

面倒くさがりやで出不精の私たち夫婦が、このときばかりは、毎週のように物件を探しに出かけたりもした。

でもなかなか、条件に合う物件が見つけられず、時間ばかりが過ぎて、したいはずのことが、重荷になってきていた。

せっかくそこまで頑張ったのに、あきらめてしまうのは惜しいけど、こういうものはタイミングもあるのだから、今回は見送ろうか、というところまでいった。

それで私は、気分転換したい気持ちもあって「引越ししないなら、地元でフィットネスクラブにでも通おうかな」と、隣駅のクラブにパンフレットを貰いに行った。

その帰りに、何気なく立ち寄った不動産屋で見つけたのが、今住んでいる家。

目的や夢の為に頑張ることは大事だけど、成果がでないことに焦り、頑張ることが苦痛になってしまうと、かえってスムースに事が進まなくなる場合がある。

行き詰ったときは肩の力を抜いて、自分を楽にしてあげると、幸運の女神も微笑むのかも。
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2007年10月21日

Dream come true

disny.jpg

美しいもの
素晴しいもの
美味しいもの
楽しいこと
素敵な人

そういうものに触れると
元気が出る

ただ感動するのではなく
自分も頑張ろう、と

胸の奥のどこかで
小さな力が目覚める

未来は自分でつくるもの

夢は叶えるもの

自分も誰かの希望になれるように
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2007年04月06日

100年後の誰かのために

若い頃は、なんとなく、世の中を動かしているのは、一握りのリーダーシップを持った人、歴史に残るような偉い人たちたちなんだと思っていたようだ。

でも、年齢と経験を重ねるうち、そうではないということがわかってきた。教科書に載るような一部のヒーローやヒロインが社会を変えたのではない。その裏には、無名の普通の人の汗と涙と努力がある。確かにその代表者としてヒーローは名を残すが、その人一人きりでできることなどない。その人に影響を与えた人、その人を応援した人、支えた人、ともに歩んだ人もたくさんいる。それは本当にごく普通の一般人なのだ。だが、誰が一人欠けても、そのことは成し得なかっただろう。

例えば、日本で女性の社会的地位が(婦人参政権が)認められたのは、ほんの100年ほど前のことだ。
100年前の誰かが、立ち上がって、努力してくれたお陰で、今の私たちの暮らしがある。

政治のこと、難しいことはよくわからないけど、苦労してこれを勝ち取ってくれた有名無名のたくさんの人々のことを考えたら、この一票を無駄にしては申し訳ないと、思うようになり、選挙には必ず行くようになった。

特定の政党や人物を応援しているわけではないし、正直、誰に投票すればいいのか全く見当もつかないこともある。でも、少なくとも「この人だけは絶対×」というのはあるので、それ以外の人に入れることで、間接的に意思表示することになるのではないかと思っている。

先日見た、映画「六ヶ所村ラプソディ」の中の、こんな言葉も胸に響いた。
(ここで言っているのは、核施設に賛成か反対かの話だけど、他のあらゆる問題に置き換えられると思う)

「中立は楽だよね。だって、賛成していないと思っているから」

「なんで私が、中立から心配派に変わったかっていうと、
中立っていうのはね、いい言葉なんだけど、中立っていうことは
賛成と同じなんだよ。だって、反対って言わないし、行動もしないし、
ただ見てるだけ。見てるってことは容認してるってことで、
賛成派なんだよ(と、ある人に言われたから)」

自分の意思表示が、100年後の誰かを幸せにするかもしれない、不幸せにするかもしれない。

世界を変えるのは、自分。
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2007年03月14日

ストレスを楽しもう

乳がんになったあと、私が心に決めたことは、
「これからは、絶対、したくないことはしない!したいことだけする!」
ということだった。

30そこそこで自分の死をリアルに意識してしまったら「限りある人生だもの、好きなことしよう」という気持ちが強くなるもの当然。

ストレスは大敵。ストレスになるようなことは極力避けよう・・・と思った。
会社も辞め、わずらわしい人間関係や、面倒なことはなるべく避け、できる限り、好きなように生きてきた・・・つもり。

しかし、だんだん「したいことだけするって、案外つまんないかも」という気がしてきた(笑)

忙しいこと、疲れること、面倒なこと、苦しいこと、チャレンジ、努力、苦労・・・そういうものを避けて、楽なほう楽なほうへ道を選ぶと、リスクも少ないけど、当然ながら、その先に得るものも無い。達成感も充実感もない。なまぬるい平和。

そして、ストレスを避けて自分を甘やかしていると、耐性が低くなるのか、ちょっとのことで凹みやすくなる。ストレスを避ければ避けるほど、ストレスが怖くなる。

でも、適度なストレス、プレッシャー、緊張感は、人生のスパイスなのかもしれない。それを乗り越えてこそ、強くなれる。

今のモットーは「したいことはする、したくないこともする」。

ストレスを楽しもう!
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2006年10月19日

爪よ伸びろ!

人間の体ってすごいなあ、と思うことはよくありますが、1つ、こんなことを思い出しました。

私は万年貧血気味のせいか、爪を長く伸ばすことができません。すぐに折れてしまいます。
指も短くて不恰好なので、「手のおしゃれ」なんて、最初からあきらめモード。

そんな私ですが、結婚式の時(だいぶ前の話ですよ;)は、白無垢の袖からのぞく手を少しでもすらっと美しく見せたいと、爪を伸ばすことにしました。結婚式前にエステでお顔や体に磨きをかけたりする人もいますが、私はそういうのは関心なくて、でもなぜか、手だけはちょっとなんとかしたいなと、その時思ったのです。

それで結局、特別な努力をした覚えも無いのだけれど、ちゃんと伸ばすことができたから不思議なのです。
とにかく「伸びるといいな」って思っていただけのような気がします。

式の時はもちろん、他の人は誰も私の手なんか見てもいないだろうけど(笑)、自分としてはささやかな願いが叶って、とてもうれしかったです。密かに。

その時以来、爪を伸ばすことに成功したことはありません。

女優さんが顔だけは汗をかかないとか、スポーツ選手が怪我をしているのに大きな試合に勝つとかいうことがあるように、人間て意外と、自分の体の、コントロールできそうも無い部分までコントロールできるものなのかもしれないと思います。

その潜在能力をうまく利用できたら、ダイエットに成功したり、自分で病気を治したりできるのかな・・・???
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2006年09月10日

感じのいい店

よく買いに行く近所のパン屋さん。小さな店だけど、パンの種類も豊富、値段も手ごろ、もちろんおいしいので、人気がある。

しょっちゅう行っているので、普通なら店員さんの顔を覚えると思うのだが、この店は雇っている人が多いのか、行く度に違う人であることが多い。

夏の間は、いかにも「アルバイト初体験」という感じの、初々しい高校生の男の子の2人組がギクシャクしながらレジを打っていて、なんだかほほえましかった。

それで、ふと気づいたのだけど、人は入れ替わっても、この店の店員さんの印象ってみんな似ている。決して威勢がよかったり、すごく愛想がよかったりというわけではなく、どっちかというとおとなしそう、ほんわかした柔らかい感じ。かといってドンくさいわけではなく、やることはちゃんとやってるし、挨拶や受け答えはきちんとしていて感じがいい。清潔感がある。
きっと、オーナーさんが、しっかりした人なんだろうなあ。

こんな店のパンは、体にもよさそうだ。
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2006年06月12日

手放す勇気

gyoen.jpg梅雨前、夏のように陽射のつよいある日、新宿御苑に入った。

のんびり読書でも思っていたのだが、平日というのに思いのほかにぎやか。
スケッチをする中学生があちこちでたむろし、芝生の広場では大量の幼稚園児がかけまわっている。騒がしい場所を避けて、なおかつ直射日光があたらない木陰のベンチを探す。ところが、よさそうな場所はすでに先客があって座れない。

日陰の場所に空いているベンチを発見。「みーつけた!」とばかりイスとりゲームのように、あわてて座る。前は大きな木と芝生が広がっていて、道の先は行き止まりなので人通りも少なく静か。本を開く。

うーん快適、、、と思ったのもつかのま、なんだか居心地が悪くなってきた。木陰すぎて、頭の上に降りかかっている木がちょっと鬱陶しく感じる。虫でも落ちてくるんじゃないか、と思ったら、もう気が気でなくなって落ち着かなくなった。

せっかくいい場所にベンチを確保したのに。
ここを離れて先に行っても、これよりベストな場所があるだろうか?
もっと中心地へ行くと、子供たちがうるさそうだし。
空いているベンチは直射日光がガンガン。
あー、でも、なんかやだな。どうしようかな。

ちっとも読書に身が入らない。

思い切ってそのベンチを離れ、また歩き出した。

新宿御苑の敷地はやたらと広い。
森のようなゾーン、日本庭園、イギリス式庭園・・・。
ぐるっとひとめぐりして、結局、フランス式庭園のプラタナス並木の下に落ち着く。

風通しがよくて気持ち良く、快適。ベンチもたくさん空いていた。
なんだ、最初のところより、ずっといいじゃない。

もし「もう空いてるベンチがなかったら困る」って、最初の場所にしがみついてたら、こんなに気持ちよい場所を知らないで、じめじめした暗いところにいた。

広い広い公園の中のはじっこの、うーーーんと片隅のところだけ見て、そこにしがみついてたなんて、ばかみたい!

・・・今の私にとって、象徴的な出来事だった。

今いる場所が「そこそこ快適」だったら、手放すのは惜しい。

でも「そこそこ」っていうのが曲者。

「そこそこ」の快適さを手放す勇気がないばかりに、もっといい場所があることも知らずにいるなんて、なんだかもったいない。

井の中の蛙 大海を知らず、だ。

手放した結果、「もっといいもの」は見つけられず、両方を失うリスクはある。
でも、失敗したとしても、何もしないで井戸の中でじっとしてウジウジしているよりは、ダメモトでざぶんと大海に飛び込んでみる方が、キモチイイかも。

二兎を追って三兎を得たい私には、むつかしいことなのだが(笑)

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ (うーん、ことわざって、深い・・・・)
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2005年10月20日

朝一番にスケールを広げる

悩み事、心配事で頭がいっぱいになっている時って、すごく視野が狭くなっているなあと思う。目の前のことしか見えない。

寝ているときまで、夢の中に心配事が出てきたりする。朝、目が覚めるといきなり現実が襲ってきて、そんな気分をひきずったまま、一日が始まり、そしてあっというまに終わってしまう。こんな風になってしまうと、何をやってもうまくいかない。

そういう時は、朝一番にスケールの大きいことを考えるように心がける。

現実のあわただしさに紛れてしまう前に、自分→家族→社会→国→世界→地球→宇宙→現在・過去・未来→果てしない時間の流れ・・・と、カメラをズームアウトさせるように、気持ちを広げていく。今の自分のいる位置を俯瞰して見る感じ。

急にそんなことを考えるといっても、寝ぼけた頭ではむつかしいので、助けになるものを寝る前に枕元に用意しておくのもいい。

写真集や画集、雑誌など。今の自分の生活とはかけ離れた、大自然、いろんな国々、美しいもの、素敵な生き方をしている人たちのこと。ぱらぱらっとめくるだけで、結構気持ちが切り替わる。詩や音楽なんかもいい。

ネスカフェのCMでおなじみになった谷川俊太郎さんの「朝のリレー」
カムチャッカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウィンクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から緯度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

私はこの詩を読むと、いつも涙ぐんでしまう。

世界は広い、宇宙は広い、時間の流れは止まらない。
ちっぽけなことで悩んで、立ち止まっている場合じゃない、と思う。

ずっと前に、テレビで作詞家の阿木陽子さんが、こんなことを言っていた。

『若いころはパーティーがあるとか、「なにか」があると楽しかったけど、今はなにもなくても楽しい。朝おきて「ああ楽しい」と思う。一日に何回もわけもなく「ああ楽しい」って思う。』

こんな生き方が理想だと思う。
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2005年05月20日

お茶の時間

「リュージュ」という名前のお茶があります。

フランス語みたいな響き。でも実は漢字で「龍珠」と書きます。正式名称は「茉莉龍珠」なのか、詳しいことはよくわかりませんけれど、ジャスミン茶の茶葉を小さな玉にまるめてあって、お湯をそそぐと、水中花みたいに開きます。

たまたま入った中国茶カフェで、きれいだな、面白そうと思って買ったら、おいしさにびっくり!一時ハマってしまいました。ジャスミン茶ってあまり好きではなかったのだけれど、これは何か、私が知っているジャスミン茶とちがーう!!でも、名前の文字や、言葉の響きの素敵さに、酔っている部分もあるのかも、とおもいました。

お茶とかお香って、味や香りそのものはもちろんだけど、名前からイメージして心を遊ばせる楽しさがあります。

そして、お茶をいれて一息いれるっていうのは、単に喉を潤すだけではなく、もっともっと豊かな、「心の栄養」という気がします。コーヒー、日本茶、中国茶、紅茶、ハーブティー、それぞれの奥深さ、楽しさがありますよね。

飲んでおいしいのはもちろんいいけど、名前、見た目、入れるまでの工程が、ゆったりした特別な時間をつくりだしてくれます。

でも、あまりにも忙しすぎて気持ちに余裕がなかったり、ストレスを感じていたり、体の調子が悪かったり、不摂生が続いていたりするときは、お茶のシンプルな味わいがわからなくなって、もっと味の濃いもの、甘いもの、辛いもの、刺激の強いもでないと物足りなく感じたりします。

手間をかけてお茶を入れたり、静かに味わったりすることなく、「ただ流し込む」だけのものになってしまいます。

一杯のお茶をしみじみとおいしく味わえるか否かは、案外、体の健康、心の健康のバロメーターなのかもしれません。
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2005年01月18日

電波の届かないところ・・・

最近ではパソコンや携帯で、離れたところに住んでいる友達や恋人や家族と毎日のように、あるいは一日に何度もメールをやりとりしている人も多いだろう。

例えば自分は東京に住んでいて、北海道の友達と毎日のようにメールのやりとりをしているとする。まるで身近にいるような感覚で、たあいのないおしゃべりするのが日課になっているとする。その友達が2週間アフリカに旅行に行った。パソコンは持っていかない、携帯もつながらない。

さて、そんな時どんな気持ちになるでしょう?・・・きっと味わったことのある人も多いだろうと思う。

そもそも東京と北海道、遠く離れたところに住んでいて日常そばにいるわけではない。そばにいないという点では、北海道でもアフリカでも変りはない。だけど、相手がいつものパソコンの前にいないという感じは、とても寂しく心細くて、そこにいるべき人がいない―不在―という不思議な感触がある。

でも、相手は電波の届かないところにいるだけで、確かに地球上のどこかにいて、そのうち帰ってくる。いざとなれば、国際電話で話すこともできるし、もし向こうがどこかの町でインターネット・カフェをみつけたらパソコンでやりとりすることもできるし、飛行機にのって会いに行くことだって不可能なわけじゃない。

「いつもの手段で話せないところにいる」というだけであって、相手とつながりが切れたわけではないのだ。相手はちゃんと存在している。

それではもし、その友達が死んでしまったとする。

そばにいないという点では、北海道でもアフリカでも天国でも変りはない。
でも、友達は帰ってこないし、もう会えない。

・・・だけど私は思うのだ。

これもまた「いつもの手段で話せないところにいる」というだけであって、相手とつながりが切れたわけではないのだ、と。

そんなふうに考えると、なんだかちょっと安心する。

そう。彼女は「いつもの手段」の電源を切っているか電波の届かないところにいるだけで、いなくなってしまったわけじゃないんだ。

充電器を持っていくのを忘れちゃったのかもね。
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2004年10月05日

暗くたって、いいじゃないか!

一般的に「癌に勝つためには、”明るく前向き”であることが大事」といわれていて、私も、確かにそうだと思う。しかし「ポジティブで治療に意欲的である」ことと「明るく元気な性格である」ということは別のことだ。それを私は最初、混同していた。

私はそもそもが「明るく元気な性格」ではない。アクティブに飛び回ったり、仲間とワイワイやるよりは、一人で本を読んだり、ぼんやり考え事をしているほうが楽しかったりする。別に「明るい性格=良い性格」で「暗い性格=悪い性格」だとは思っていないので「明るい性格になりたい」なんて思ってはいなかった。

ところがそれなのに、癌になったとたんに「明るくないと病気に勝てない」という思い込みがプレッシャーになり、必要以上に明るく元気にふるまおうとしていたようだ。自分自身を鼓舞する意味もあり、周囲に心配掛けたくないという思いもあったのだろう。本来の自分らしくないくらいに、妙にテンションが上がっていた。

「乳がんになったというのに、すぐ立ち直って、こんなに元気でこんなにガンバッてる健気なワタシ」を無意識のうちに演じていたような気がする。術後1〜2年くらいは、そんな不自然な状態だった。今となってはそれが「不自然だった」とわかるのだが、当時は自分でも気付いていなかった。

しかし、そのうち「明るく前向きなふり」をしていることは、自分にとって非常に無理があるということに気が付き始めた。「明るく前向き」が良いとはいっても、それを自分に無理強いしている状態は、本当の「明るく前向き」ではない。

無理していたら、それ自体がストレスになって、むしろ体に悪いんじゃないだろうか?!それならいっそ、ありのままの自分であることのほうが、むしろ自分にとっていいのではと思ったら、肩の力が抜けた。

・・・暗くたって、いいじゃないか!(笑)

どうしても前向きな気持ちになれないようなときは、そんな自分を責めないで、『ま、しょうがないさ。癌なんて病気になってしまったんだから、心配したり不安になるのはあたりまえ。平気でいられるほうがおかしいよ。』と、開き直る。

もがいてももがいても、落ち込みから抜け出せないようなときは、焦らずに、『無理に立ち直ろうとすればするほど深みにはまるもんさ。落ちるところまで落ちたら、そのうち自然に浮かんでくるfだろう。』と流れに身を任せる。

極めつけの呪文(?)
上がらない雨は無い。明けない夜は無い。夜明けの前は一番暗い。

あるがままに、あるがままに。。。
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2004年07月29日

スペシャル・ケアより、まず基本ケア

美容院で髪をカットしたあと、髪の痛みが気になっていたのでトリートメントを買おうとしたら、美容師さんが「シャンプーはどんなの使ってるの?」と聞くので、「その辺で売ってるフツーのやつ(笑)」と答えると、「それならば、トリートメントのいいのを使うよりも、ちゃんとしたシャンプーを使った方がいいですよ」と言われた。

その言葉に私は二重にハっとした。と、いうのは、カットしてもらっている間に読んでいた雑誌に同じようなことが書いてあったから。「同じようなこと」と言っても、雑誌の方は髪の毛の話ではなく、フェイスケアについての話だったのだが。

つまり、「肌荒れを早く治すには○○の美容液」とか「目の下のくまを隠すにはこのファンデ」とかいうスペシャル・コスメを捜し求めることよりも、まず、洗顔やマッサージなど日々の手入れをきちんとすることのほうがずっと大事である、ということで、「なるほど、そうだよねえ」と納得したばかりだったのだ。

こういう偶然が続いたのは「気をつけなさいヨ」という何かのメッセージだと思うので、改めて考えてみた。

髪や肌のトラブルというと「美容」的な観点から「見た目が悪いからなんとかしたい」ということになるのだけれども、髪や肌にトラブルが起きるということは、結局、食生活の乱れ、睡眠不足、疲れ、ストレスといったようなことが原因であることが多い。つまり、不健康な生活が、不健康な髪や肌をつくる。

ここで、高価な化粧品やエステなど対症療法的スペシャル・ケアに頼ってその場をしのぎ、原因となっている自分の生活の問題点を放置したままにおけば、トラブルは髪や肌にとどまらず、つもり積もって大きな病気を引き起こす可能性もあるのではないだろうか。

ダイエットにしてもそうだ。「○○を食べてやせる」「1週間○○を飲んで5Kgやせた」などという謳い文句の荒療治的ダイエットでは、一時的に体重を減らすことはできても、自分の太る原因となっている生活態度や習慣が治るわけではないので、すぐに戻ってしまう。

テレビや雑誌で毎日のように飛び交っている、××で▲▲が治る!、、○○健康法、健康食品、サプリメント、etc....センセーショナルな「健康情報」には、つい飛びつきたくなる。特に癌なんて病気をしてしまったあとでは、「何か特別なことをしなければ治らない、再発してしまうのではないか」という強迫観念のようなものが常につきまとう。

そして、ちょっとやってみては、すぐ飽きてしまったり、「効いてるのか効いてないのかわからない」と投げ出してしまったり、そして、また次の新しい方法を試したくなる。

でも本当は、まず何よりも、健康のためには、規則正しくバランスのよい食事、適度な運動、充分な休息、ストレスを減らす、そういうことのほうが大切だってことは、よくわかっているのだ。

スペシャルな何かは、スペシャルであればあるほど(高価だったり、入手困難だったり)、短期間で劇的に自分を変えてくれそうに思える。そして、それさえやっていれば、「何か特別なことをしている」という事実が、安心感や希望を与えてくれそうだ。

それにひきかえ、例えば「ご飯をよくかんで食べる」「休養を取る」なんていう、誰にでもすぐに簡単にできそうなことは、簡単であるがゆえに軽視され、そしておろそかにされがちだ。実は「なんでもない簡単なことをコツコツ黙って続ける」というのは、かえってとても難しいのである。しかし、だからこそ、表面だけでなく根本から自分を変えることができるんだと思う。

スペシャルな何かが悪いというわけではない。でも、スペシャル・ケアだけに依存して、基本ケアをおろそかにしたら、結局はなんにもならないってことなんじゃないだろうか。
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2004年07月19日

良い「気」を浴びる2(大好きな仲間)

4年ほどまえから、朗読ボランティアをしている。

所属している区のボランティア・グループ自体は100人以上の大所帯だが、その中でいくつかの小グループに分かれ、視覚障害者向けの音訳図書の録音、対面朗読などのほか、老人ホームや子供向けの観賞朗読など、それぞれの仕事をしている。

私が参加しているグループは10人程のメンバーで、2週間に一度、新聞記事を朗読して90分テープに録音し、リスナー(視覚障害者)に発送する。読む記事は前の回の時にあらかじめ分担しておき、各自が自宅で下調べや練習をしてくる。ミキサー(録音機械操作)も交代でやる。そうしたメインの仕事以外に雑用も結構ある。

早めに行って録音室の鍵をあけて、機械のセットをするとか、お茶の用意をするとか、お昼の手配とか、新しいテープを補充するとか、細細したこと。でも、うちのグループでは、メインの作業以外のことは特に当番を決めたりしていない。

誰も何もいわなくても気が付いた人が率先してやる。自分だけラクしようなんて思っているような人はいないし、自分がやったことを恩着せがましく言うような人もいない。「いつも○○さんにばかりやってもらっているから、今日は私が〜」とかいう感じで自然にまわっていく。それが、すごくいい感じ。

「ボランティア」というと妙に大げさに思われがちで、やたら「えらいですね」とほめられたり、逆に「偽善ぽい」と、うさんくさく思われたりする。だけど、本当のボランティア精神っていうのは、実はこんな風にごく自然に、お互いがお互いを思いやることで生まれてくるあたりまえの行為なんだと、私はここで学んだ。

私は、基本的に人付き合いが面倒で、できることなら人に会わないで暮らしたい、と思っているくらいで、習い事をしても、習い事そのものよりも、人間関係がイヤになってやめてしまうことが多いのだけど、このボランティアを4年も続けてこられたのは、このグループの雰囲気の良さのお陰だと思う。

ボランティアをすることで「自分でも誰かの役に立てる」と思えることが喜びや生きがい、心の平安につながているだけでなく、純粋な愛と優しさに満ちた人たちが発する暖かい「気」(オーラかな?)に包まれながら仕事をする時間は、私にとって何よりの癒しになっているような気がする。

そこに自分の「居場所」があることに感謝する。
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2004年07月09日

良い「気」を浴びる1(神社仏閣)

神社やお寺というと、初詣の時くらいしか行かないという人も多いかもしれない。または、いわゆる「困ったときの神頼み」、合格祈願、病気平癒、厄除け。

私は特定の宗教を信仰しているとか、信心深いというわけではないのだが、どういうわけか昔から「神社仏閣大好き人間」。

旅の目的のメインは神社やお寺が多いし(したがって京都・奈良・鎌倉が大好き)、ふだん街なかを歩いていても、小さな神社やお寺を見つけると、ついふらふらと入っていってお参りをする習癖がある。

そんなふうに、ふらっと立ち寄ったようなときは、特に願い事など何も無いつもりでいても、手を合わせると、とっさに浮かんでくる事柄があったりする。その事柄について「そんなに気にしていないつもりでも、実は結構心配してたんだな」と改めて気付いたりする。

「祈る」とか「拝む」とかいうけれど、私にとってその行為は、神や仏にすがって何かをしてもらおうというよりは、自分が今、心の奥底で本当に望んでいることは何なのかということを「確認」し、そのことに向かって決意を新たにするための儀式(プロセス)のような気もする。

由緒ある大きな神社仏閣に行くと、その荘厳で静謐なたたずまいに、身も心も清められるような思いがする。

それは、そこに神聖な建物や施設があるからというばかりではなく、そもそも、そういう神社仏閣というのは、良い土地、良い気脈(?)の上に建てられているものなので、そこへ行くだけで良い「気」を浴びることができ、「運」がよくなるのだというようなことを読んだことがある。

「なんかこのごろ調子がイマイチだなあ」というときや、「かんばるゾ!」と気持ちを新たにしたいようなとき、私はよく明治神宮へ行く。玉砂利をゆっくり踏みしめて参道を歩いていくと、杜(もり)の霊気が身にしみてくる。拝殿でパンパンと拍手を打つと、自分の中のスイッチが、カチリと切り替わる。
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