2004年07月29日

スペシャル・ケアより、まず基本ケア

美容院で髪をカットしたあと、髪の痛みが気になっていたのでトリートメントを買おうとしたら、美容師さんが「シャンプーはどんなの使ってるの?」と聞くので、「その辺で売ってるフツーのやつ(笑)」と答えると、「それならば、トリートメントのいいのを使うよりも、ちゃんとしたシャンプーを使った方がいいですよ」と言われた。

その言葉に私は二重にハっとした。と、いうのは、カットしてもらっている間に読んでいた雑誌に同じようなことが書いてあったから。「同じようなこと」と言っても、雑誌の方は髪の毛の話ではなく、フェイスケアについての話だったのだが。

つまり、「肌荒れを早く治すには○○の美容液」とか「目の下のくまを隠すにはこのファンデ」とかいうスペシャル・コスメを捜し求めることよりも、まず、洗顔やマッサージなど日々の手入れをきちんとすることのほうがずっと大事である、ということで、「なるほど、そうだよねえ」と納得したばかりだったのだ。

こういう偶然が続いたのは「気をつけなさいヨ」という何かのメッセージだと思うので、改めて考えてみた。

髪や肌のトラブルというと「美容」的な観点から「見た目が悪いからなんとかしたい」ということになるのだけれども、髪や肌にトラブルが起きるということは、結局、食生活の乱れ、睡眠不足、疲れ、ストレスといったようなことが原因であることが多い。つまり、不健康な生活が、不健康な髪や肌をつくる。

ここで、高価な化粧品やエステなど対症療法的スペシャル・ケアに頼ってその場をしのぎ、原因となっている自分の生活の問題点を放置したままにおけば、トラブルは髪や肌にとどまらず、つもり積もって大きな病気を引き起こす可能性もあるのではないだろうか。

ダイエットにしてもそうだ。「○○を食べてやせる」「1週間○○を飲んで5Kgやせた」などという謳い文句の荒療治的ダイエットでは、一時的に体重を減らすことはできても、自分の太る原因となっている生活態度や習慣が治るわけではないので、すぐに戻ってしまう。

テレビや雑誌で毎日のように飛び交っている、××で▲▲が治る!、、○○健康法、健康食品、サプリメント、etc....センセーショナルな「健康情報」には、つい飛びつきたくなる。特に癌なんて病気をしてしまったあとでは、「何か特別なことをしなければ治らない、再発してしまうのではないか」という強迫観念のようなものが常につきまとう。

そして、ちょっとやってみては、すぐ飽きてしまったり、「効いてるのか効いてないのかわからない」と投げ出してしまったり、そして、また次の新しい方法を試したくなる。

でも本当は、まず何よりも、健康のためには、規則正しくバランスのよい食事、適度な運動、充分な休息、ストレスを減らす、そういうことのほうが大切だってことは、よくわかっているのだ。

スペシャルな何かは、スペシャルであればあるほど(高価だったり、入手困難だったり)、短期間で劇的に自分を変えてくれそうに思える。そして、それさえやっていれば、「何か特別なことをしている」という事実が、安心感や希望を与えてくれそうだ。

それにひきかえ、例えば「ご飯をよくかんで食べる」「休養を取る」なんていう、誰にでもすぐに簡単にできそうなことは、簡単であるがゆえに軽視され、そしておろそかにされがちだ。実は「なんでもない簡単なことをコツコツ黙って続ける」というのは、かえってとても難しいのである。しかし、だからこそ、表面だけでなく根本から自分を変えることができるんだと思う。

スペシャルな何かが悪いというわけではない。でも、スペシャル・ケアだけに依存して、基本ケアをおろそかにしたら、結局はなんにもならないってことなんじゃないだろうか。
ラベル:健康 美容
posted by HANA at 00:00 | TrackBack(0) | ココロとカラダ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月19日

良い「気」を浴びる2(大好きな仲間)

4年ほどまえから、朗読ボランティアをしている。

所属している区のボランティア・グループ自体は100人以上の大所帯だが、その中でいくつかの小グループに分かれ、視覚障害者向けの音訳図書の録音、対面朗読などのほか、老人ホームや子供向けの観賞朗読など、それぞれの仕事をしている。

私が参加しているグループは10人程のメンバーで、2週間に一度、新聞記事を朗読して90分テープに録音し、リスナー(視覚障害者)に発送する。読む記事は前の回の時にあらかじめ分担しておき、各自が自宅で下調べや練習をしてくる。ミキサー(録音機械操作)も交代でやる。そうしたメインの仕事以外に雑用も結構ある。

早めに行って録音室の鍵をあけて、機械のセットをするとか、お茶の用意をするとか、お昼の手配とか、新しいテープを補充するとか、細細したこと。でも、うちのグループでは、メインの作業以外のことは特に当番を決めたりしていない。

誰も何もいわなくても気が付いた人が率先してやる。自分だけラクしようなんて思っているような人はいないし、自分がやったことを恩着せがましく言うような人もいない。「いつも○○さんにばかりやってもらっているから、今日は私が〜」とかいう感じで自然にまわっていく。それが、すごくいい感じ。

「ボランティア」というと妙に大げさに思われがちで、やたら「えらいですね」とほめられたり、逆に「偽善ぽい」と、うさんくさく思われたりする。だけど、本当のボランティア精神っていうのは、実はこんな風にごく自然に、お互いがお互いを思いやることで生まれてくるあたりまえの行為なんだと、私はここで学んだ。

私は、基本的に人付き合いが面倒で、できることなら人に会わないで暮らしたい、と思っているくらいで、習い事をしても、習い事そのものよりも、人間関係がイヤになってやめてしまうことが多いのだけど、このボランティアを4年も続けてこられたのは、このグループの雰囲気の良さのお陰だと思う。

ボランティアをすることで「自分でも誰かの役に立てる」と思えることが喜びや生きがい、心の平安につながているだけでなく、純粋な愛と優しさに満ちた人たちが発する暖かい「気」(オーラかな?)に包まれながら仕事をする時間は、私にとって何よりの癒しになっているような気がする。

そこに自分の「居場所」があることに感謝する。
ラベル:ボランティア
posted by HANA at 00:00 | TrackBack(0) | ココロとカラダ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月09日

良い「気」を浴びる1(神社仏閣)

神社やお寺というと、初詣の時くらいしか行かないという人も多いかもしれない。または、いわゆる「困ったときの神頼み」、合格祈願、病気平癒、厄除け。

私は特定の宗教を信仰しているとか、信心深いというわけではないのだが、どういうわけか昔から「神社仏閣大好き人間」。

旅の目的のメインは神社やお寺が多いし(したがって京都・奈良・鎌倉が大好き)、ふだん街なかを歩いていても、小さな神社やお寺を見つけると、ついふらふらと入っていってお参りをする習癖がある。

そんなふうに、ふらっと立ち寄ったようなときは、特に願い事など何も無いつもりでいても、手を合わせると、とっさに浮かんでくる事柄があったりする。その事柄について「そんなに気にしていないつもりでも、実は結構心配してたんだな」と改めて気付いたりする。

「祈る」とか「拝む」とかいうけれど、私にとってその行為は、神や仏にすがって何かをしてもらおうというよりは、自分が今、心の奥底で本当に望んでいることは何なのかということを「確認」し、そのことに向かって決意を新たにするための儀式(プロセス)のような気もする。

由緒ある大きな神社仏閣に行くと、その荘厳で静謐なたたずまいに、身も心も清められるような思いがする。

それは、そこに神聖な建物や施設があるからというばかりではなく、そもそも、そういう神社仏閣というのは、良い土地、良い気脈(?)の上に建てられているものなので、そこへ行くだけで良い「気」を浴びることができ、「運」がよくなるのだというようなことを読んだことがある。

「なんかこのごろ調子がイマイチだなあ」というときや、「かんばるゾ!」と気持ちを新たにしたいようなとき、私はよく明治神宮へ行く。玉砂利をゆっくり踏みしめて参道を歩いていくと、杜(もり)の霊気が身にしみてくる。拝殿でパンパンと拍手を打つと、自分の中のスイッチが、カチリと切り替わる。
ラベル:神社 お寺
posted by HANA at 00:00 | TrackBack(0) | ココロとカラダ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。